弦巻楽団演技研究講座“舞台に立つ”『ハムレット』、先日1日に無事全7ステージを終演しました。過去最大となる36名での創作、そのうち34人が出演という大規模な取り組みになりました。
おかげさまで公演にはたくさんのお客様が来てくれました。遠く函館からのお客さんや、“舞台に立つ”の過去の受講生は、浜頓別から駆けつけてくれました。本当にたくさんの方が。
スタッフワークも全て自分たちの手で、と言う“舞台に立つ”どころか“舞台から作り、立つ!”なこの企画。今回は今まで以上に指導役の弦巻の手から離れ、自分たちで作り上げた領域の大きな舞台になりました。
これまでもそうしたスタッフ分担はされていたのですが、「アイディア出し」にとどまらず、実際に「演出を指示」したり「作曲」したり「衣装や小道具を製作」したり「新たな宣伝にトライ」したりしました。
そうした成果は驚くほど大きかったと内側の人間としては思います。
最終的には自分(弦巻)の手が加わったり、演出意図が優先されるにしても、「自分たちの手でまず練った」作品の魂はずっと舞台に存在しているようでした。36人、それぞれの気持ちまでは推し量れませんが、みんながこの『ハムレット』を自分の作品だと思ってくれたようです。
講座の期間、2日間札幌を離れたことがありました。団員と、演出部の人間に自分がいない間に何をしておいて欲しいか課題を伝え、出張で函館に行ってました。その夜。演出部のまとめ役岩田くんから送られてくる報告にびっくりしました。正直、伝えたうちの6割くらい消化できていればいいなあ、と言うつもりの課題でした。
報告に書かれていたのは、自分の想像を超える稽古の充実でした。
しかも各パート積極的に、具体的に進んでいるようでした。今回は村上義典、遠藤洋平、深浦佑太と楽団経験豊富な三人が支えてくれてるのも大きかったですが、それを差し引いても、ちょっと驚きの仕事量でした。
昨年以前からの参加者、四月からの受講生、それぞれの成長が準備段階で見えました。
34人分の衣装や小道具、しかも役で言えば60役以上です。みんな手分けして、連絡を取り合って、共同作業を進んで行ってくれました。
馬鹿な発言ですが、ようやくというか、気づいたことがあります。
自分はいないほうが良いんだな、と言うことです。薄々気づいていましたが、それが自分の目指す場所には最も良いのだということに気づきました。
自分はどうしたってこの現場にいれば「声の大きな人間」です。本当はそうした人間がいても進行できる参加者でいて欲しいのですが、それはそれ、弦巻楽団で弦巻啓太ですからね。なかなか「声が大きくても気にしなくて良いです。みんなと同じです。」とはいかないでしょう。
しかし、久しぶりに帰った現場ではみんなの結びつきも、取り組む体重の掛け方も、明らかに一皮剥けてました。みんな「どうして良いかわからない」と悩んでいましたが、それは一度自分から主体的に取り組んだ故の「どうして良いかわからない」になっていました。ずっとこういう場になれば良いなあ、と感じていた現場がありました。
みんな、じゃあ始めよう。
「ハムレット」はやはりとても面白い作品でした。
驚くほど今日的な作品でした。テーマが現代的、というのとはちょっと違うんじゃないかと僕は思います。人間が今日的なんです。父を殺した叔父に復讐を果たそうとする王子の話、と書くと「どこが今日的なんだ」と言われそうですが、読んでみると、そして声に出してハムレットの行動を検証してみると、復讐をやり遂げる不屈な闘士の物語では全然ないことが分かります。むしろ、自分では何も踏み切れない弱い、惑う優柔不断な青年の物語だと気付かされます。
そのハムレットの「はっきりしなさ加減」は作品全体を覆うようで、構成のゆるさ、場当たり的な辻褄の合わなさ、展開が畳み掛けてこないスッキリしなさが感じられます。ハムレットを演じた村上義典は「と、いうわけだホレイショー。」というセリフで始まる最後の場面5幕2場に衝撃を受けていました。「そんな始め方ある?!しかも前の場面、墓地でレアティーズにかっこよく啖呵きっておいてだよ?!」「どっからでもつなげられるじゃん!」
全くもってその通りで、ハムレットのイギリス追放→帰還のくだりにしても、なるほど、深読みをすれば納得はできても、エンターテイメントを追求するとすれば展開の余計な回り道に感じなくもありません。
しかし、この回り道が必要だったとすれば。展開のスピード感よりも何かを優先するように選ばれていたとしたら。構成のゆるさ、場当たり的な辻褄の合わなさ、展開が畳み掛けてこないスッキリしなさ、そうしたアウトラインでなくては描けない心象をハムレットが表しているとしたら。
ハッキリしていないことが、ハッキリとは表せない生きることの不安を正確になぞっている。
そんな作品だとやっていて感じるようになりました。そうした物語が持つ復讐劇としてのカタルシスや、一気呵成な悲劇と言う快楽を手放した「ハッキリしなさ」。それはハムレットの行動の「ハッキリしなさ」に重なります。
なぜハムレットは行動をハッキリさせないのか?
物語の中で、ハムレットの視界は何度も歪みます。冒頭から自分の見せかけと周囲の見せかけを比較し、演技だと看破し、自分の内面にはそれ以上の真実があると彼は訴えます。台詞を列挙すれば
「なるほど、そうしたものは目に見える。演技だからです。」
「あんなものを見せられるのなら死んだほうがマシだ。」
「目がないんですか?!」
二度目の父との亡霊との遭遇では
「あれが見えないんですか?!」と母に訴えます。
母の答えは「あるものは見えているわ。」
周囲の演技、お仕着せ、計略に合わせるように演じあい、欺きあいを続けるハムレット。
自分に見えている現実が誰とも共有されない悲しみ。
父の死、母の早すぎる再婚という現実を受け入れられないハムレット。
しかしさらなる衝撃は、そうしたショックを自分以外は誰も感じていなく、
さらにさらにショックなのは、
そうやって悲しむ自分こそが「おかしい」と周囲からみなされることだった。
「狂気?!」
周囲の人間が自分をおかしいと思うなら、ようし、それならいっそ狂人として振舞ってやろう。
亡霊の言葉を信じたハムレットの鬱屈に火がつきます。
正義も真理も真実も錯乱し、心の立脚地点を失ってしまう不安。
そこからハムレットの魂の彷徨は思わぬ展開を見せていきます。
アカデミー賞で話題になった『スリー・ビルボード』のように「どこに物語が運ばれるかわからない」サスペンスが宿っています。400年以上前の作品の中に!
その魂のあてのなさは、ものすごく今日的でした。
物語を締めくくるフォーティンブラスは言います。
「ここでは、目を覆うばかりだ。」
舞台の映像を近くYouTubeの楽団チャンネルにあげる予定です。
お楽しみに。